ゆとり教育に対して従来の教育方針を批判的に「詰め込み型」と表現することもある。この詰め込み型というのは、要は先生が言ったことをよく聞き、教科書の内容をよく覚えていることを良しとする教育方針である。こうした教育を受けて社会に出た日本人は、世界一とも言われる技術者の集団となった。
一方、こうした優秀な技術者達は仕様通りに物を作るのには長けているものの、独創性のような部分はやや乏しく、言わばロボットのようだとの指摘もされてきた(ただしロボットのように文句も言わず働くという意味でもある)。むろん、これは日本が誇るべきことではあるのだが、しかしより独創性のあるような分野での活躍も期待されるようになる。そもそも、ひたすら受験勉強的な知識の詰め込みが余裕を無くし、ロボットのような社会を生んでいるのではないか。そうした声がどこからか聞こえてくるようになり、別の形の教育が望まれるようになる。ここに「ゆとり教育」登場の布石が整う。
いわゆる「ゆとり世代」より10年以上前から実験的にゆとり教育を取り入れていた学校があった。この学校では先生が一方的に何かを教えるということが少なく、何について議論するか、何を調べたいかなどを生徒自身が決め、発表するというスタイルを取っていた。先生の出番と言えば、話が脱線しすぎた時にわずかに軌道修正する程度である。また一例ではあるが、社会の教科書における「稲作」という項目がある。普通の学校であれば、素直に先生が教科書を読んで聞かせるのだろう。この「ゆとり実験校」では「こんなもの読むよりも実際に農業を行っている人に聞くほうが有益である」といって農家まで社会科見学に行く。教師はそのためのお膳立てないしは根回しをする程度であり、実際に社会科見学の計画を立てるのもほとんど学生である。
もう1つ特徴的なのが、解を出すための「過程」を重視することである。最終的に出した答えが合っているかはそれほど問題視されず、「どのように考えたのか」という部分を評価される。事実、算数のテストで途中計算を消してしまった場合は答えが合っていたとしても0点にされる。逆に計算プロセスが正しい場合、計算ミスがあったとしても10点中8点程度はもらえる采配である。
このように、必ずしも解までの最短ではないが「自分で考える」「自分で調べる」といったことを重視していたのがこの実験校だった。言われたことを正確に行う「詰め込み教育」の特性が仕様通りに物を作る「技術者」に通じるのに対し、ゆとり教育は問題点を自分で考え、場合によっては答えのない問題に挑む「科学者」に通じる特性をもつ。ゆとり教育とは「科学者養成教育」だったのだ。
遠回りではあるし、教科書の内容をほぼそのまま問われたり「途中の計算プロセス」に対する加点のない全国模試のようなテストの成績は当然低い。客観的数値であるテスト結果が悪いのだから「学力低下」に観えるが、詰め込み型教育の成果を測るためのペーパーテストをゆとり教育に適用しているのだから、その批判はお門違いである。
では、どのようにゆとり教育の成果を評価するのか。これはかなり難しい。ペーパーテストであれば「平均点」というこの上ない客観的証拠が存在する。ゆとり教育には何があるだろうか。個々の生徒がそれぞれ、どれだけがんばって調べたり考えたりしたのか、担任の先生は知っているかもしれない。しかし、それを学校や教育委員会に対してどう伝えるのだろうか。例えば担任の先生が、社会科見学を学生たち自身で計画して行なったことや、それを活かしてどのような議論が行われたかなどをレポートとして提出することは出来るかもしれない。しかしその内容は「テストの平均点」ほど客観性のあるものではなく、まして「優劣」などつけようもないだろう。そのクラスが、さらにはその学校が、ちゃんと「ゆとり教育」を行なっているのかを評価する方法など殆どないのだ。
評価する方法がないことをいいことに、教師、さらには学校レベルでサボって単に教える量を減らしてしまったとしても、それが明るみに出る可能性は低い。ゆとり教育を全国的に導入したとき、真面目に「ゆとり教育」を行う学校ばかりではなく、むしろ単に授業量を減らして終わりにする学校の方が多いだろう。そうしたサボり学校によってなされた教育こそが、今の「馬鹿教育」を意味する『ゆとり教育』である。
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